この街、この人、その心。 中井通夫さん (和束町 中井製茶場 代表取締役・六代目茶師)

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中井通夫さん (和束町 中井製茶場 代表取締役・六代目茶師)

茶源郷 和束

桃源郷ならぬ茶源郷とこのあたりを呼ぶらしい。
お茶のユートピアといった意味なのだろうか。
うまいこと言うじゃないかとつい感心してしまう。
京都府の南、相楽郡は和束町。和束川が町の中を流れている。
たしかに和束川を遡っていくと、左右にまるで抹茶のロールケーキを
幾本も並べたような茶畑が延々とつづくのだ。
聞くところによると鎌倉時代にはすでにこの地でお茶を作っていたのだという。
なだらかな幾重もの山と清涼な和束川が生み出す霧が、お茶のうまみを醸し出すらしい。
宇治茶というけれど、宇治周辺ではあまりお茶は生産されておらず、
この和束のお茶が宇治の茶問屋に納められて宇治茶として流通する。
そんなことを教えてくれたのは、この和束の地で六代にわたりお茶を生産してきた中井通夫さん。
彼の口から語られたのは、背骨に活を入れられるようなハードな話だったのだ。

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第一章 


七月も終りの頃のことだった。暑い日盛りの茶畑で農薬散布を終えたあと、夕涼みがてら好きな酒を飲んでいた。酒は成年に達する前から飲んでいた。一年の内で酒を飲まない日は一日か二日くらい。それほどの酒好きだった。
その日も妻が作ってくれたあてを肴に飲んでいた。酔いがゆっくりと体をひたしていく。この瞬間のために一日働いている。酒好きはそんなふうにも思うらしい。
だがその日は違った。突然胃のあたりに黒雲が広がったようにもやもやしてきてトイレに駆け込んだ。まずは苦い透明な液体がこみあげ、すぐに今食べたばかりのものを吐いた。まだ酒の匂いがほのかにしていた。
酒で吐いた記憶なんてなかった。
いや待てよ。この間もこんなことがあった。 吐きこそしなかったが、酒を飲んでもいつものように心地よく酔えなかった。なにか胃のあたりがすっきりとせず、早々に酒を切り上げ寝てしまったことがある。
あの日も・・・・。そうだあの日も農薬の散布をしていた。そこまで思い出すと、次々に記憶が連なってあらわれた。農薬を散布した日に限って体の調子が悪くなるのだ。
思い立って医者に行った。血液の中に農薬に含まれているものと同じ成分が検出された。
薄々感じてはいたのだ。
防護服で身をかため、防毒マスクで顔を覆って作業しているときに、これではまるで毒ガスを散布しているようだなと。
もちろん国の基準に従って農協が推奨する農薬を使ってはいた。だから問題はないはずだった。だが体は正直に反応した。
これは駄目かもしれないとどこかで感じていながら、生活の維持や、色々な人々への気兼ねや、他と異なることへの不安などのせいで、今までのままを続けていくことに対して本当にそれでいいのかと自問した。結論はすぐに出た。
やめた。
そう決心すると行動は早かった。昭和62年の夏のことだった。

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第二章 

「倉庫の中にあったその年の分の農薬すべてを処分してしまいました。農協と販売業者に全部持って帰ってくれって連絡したんです。気でも狂ったのかと言われましたよ」。
和束にある中井製茶場の社長、中井通夫さんがそう言って笑っている。今は笑って話せる。だが農薬を全て返した後、笑い顔はかなりの期間、彼の顔から消えてしまうことになる。
今でこそ無農薬栽培に従事する者はかなりの数になる。それについて書かれた本も、学者先生の書いたものから実践者のものまでアマゾンで検索すればずらりと出てくる。だが昭和62年当時、そんなものはどこにもなかった。
昭和62年(1987年)にあったこと。
中曽根内閣の時代。北京天安門広場で学生デモ。国鉄が分割民営化され、大韓航空機が爆破された。利根川進氏がノーベル賞をもらい、ファイナルファンタジーの一番最初のが発売され、日経平均株価は二万五千円台を行ったり来たりしていた。つまり日本はバブルの絶頂期。お金は日本国民のあまたの懐を経由して流れ、その量の多寡の違いはあったにしても皆すごくリッチな気分になっていた。あの人もこの人も株を買い、大儲けした人もあったし、それほどでもない人もあったけれど、株は確実な投資先だと思われていた。株に手を出さないのはよほどの貧乏人かノータリンだと思われたりしたものだ。人々は美味しいものを求めていたけれど、健康とか安全とか安心なんて言葉を探すのはちょっと難しかった。
そんな時代だったのだ。中井さんが農薬は一切使わず、肥料も有機なものしか使わずお茶を栽培していこうと決心したのは。
そんなイケイケドンドンな時代に逆行するようなことをよくぞ決心されましたね。
記者はよほど大きな志があったのであろうと前のめりになって尋ねた。
「決心もなにも、体壊してまで仕事を続けるわけにもいかんかったしねえ」と中井さんはこともなげに答えた。記者はバタリと前のめりに倒れた。
「そやけど虫が少なくなったなあとは思ってたんですよ。昔は夏になれば昼寝もできんくらい蝉がわんわん鳴いてたし、秋には農道を自転車で走ってると赤とんぼが体にばちばち当たるぐらい飛んでた。あの虫はどこへいったんやろ、なんか変になってきてるんちゃうかってね」
和束の風景は昔とさほど変わっているようには見えなかった。だが耳を澄ましてみるとどうにも静かなのだ。もっと世界はざわざわぞよぞよとしていた。緑に溢れかえると共に生命の音に満ちていたはずだ。
「生き物を殺す薬を撒いて育てたお茶を、お客さんに飲んでもらうわけにもいかんしなあと思いましたしね」。
わが身に良くないことは、家族に良くないし、周りの環境に良くない。栽培しているお茶に良くないし、それを飲むお客さんに良くない。社会に良くないし、未来にも良くない。 原点はわが身にある。理念とかスローガンがまずあって、それに基づいて行動するのではなくて、自分自身の実感と手ざわりと心のおもむくところによって行動を律するということ。
エコロジーなんて言葉もあまり聞かなかった頃のことだ。
だがそう決心してはみたものの、やって来た現実はとても生やさしいものではなかった。

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第三章


「農薬やめたのはいいけど、翌年から全然お茶が取れなくなりましてねえ」。
まあ見事なもんでしたよ、と中井さんは付け加えた。美味しいお酒を美味しく飲めるようにはなったけれど、その美味しいお酒を買うお金がどんどん消えていく。
お茶の栽培というシステムの中で農薬は大きな歯車のひとつだった。その歯車を外してしまったのだ。システムがうまく作動しなくなるのは、当然と言えば当然のことだった。
「どうすればいいのか指南してくれる人も教科書もない。一気に農薬をやめたはいいが、こりゃちと早まったかなと頭を抱えましたわ」。
二年目も駄目。三年目、さらに駄目。四年目、もっと駄目。ほら言わんこっちゃないという目があちらこちらから飛んできて突き刺さる。そんな頃に今ある製茶工場の最初の部分を立ち上げた。
お金も逼迫しているような時に、なぜ工場なんて建てようと思ったんですか?
「いや食うためですよ。よそから仕入れたお茶をその工場で製茶して、番茶として販売してなんとか食いつないでいこうとしたってわけです」。
お金がないから人を雇うわけにもいかず、鉄骨で三階建てほどの高さのある工場を自分一人でほとんど建てた。鉄工所の友人がいて、その場所を借りて加工したりすることができたから助かったと中井さんは言うけれど、お茶づくりと鉄骨の加工とではアラスカと南アフリカほどに遠いように思えた。
「お茶農家は冬の間は時間があるんです。その農閑期に建築作業やなんか賃仕事をいろいろするもんで、まったく素人ってわけでもなかったんですけどね」。
はあ、そんなもんですかあ。記事を書くこと以外、夕飯の支度もまともにできないわが身を振り返って、目の前の人がまるでスーパーマンのようにさえ思えた。
ある日すっぱりと農薬を使うのを止め、そのせいでお茶がとれなくなり、そんなことが二年も三年も続き、それでも挫けず、さらにはコンクリで基礎をせっせと打ち、鉄骨を肩に担いでほぼひとりで工場を建てたというのだ。鉄骨など箸ほどの重さしかなく、空さえ飛べたのかと思わずにはいられない。
いや、ほんと。

さすがのスーパーマンも徐々に弱っていった。
五年目、もっと悪くなった。六年目、もっともっと悪くなった。このあたりで中井さんもここが潮時かと思ったそうだ。
自分は日銭稼ぎの番茶作りで工場に詰めたままで、茶畑は奥さんに任せきりだった。といってまともにお茶がとれるわけもなく、することといえば毎日毎日雑草を抜くことばかり。除草剤を使わないから雑草があちこちで領土を広げにかかる。そうはさせじとぷちぷち、ぶちぶちと奥さんは雑草を抜いていった。その姿が不憫に思えた。申し訳ないと頭が下がった。
もうやめよか、と中井さんがある日奥さんに言った。
なにを今更、と奥さんが答えた。 (静寂)
そやな、と中井さんがぽつりと返した。
その時のことを語ってくれたとき、中井さんの目のあたりで水玉が一瞬膨れ上がりかけ、すぐに蒸発して消えた。女房のおかげですわ、とは言わなかった。言わずとも分かった。スーパーマンはスーパーレディに支えられていた。そういうことなのだった。

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第四章

窮すれば通ず。求めよ、されば与えられん。
そんな言葉がある。そして確かにそういうことはあるらしいのだ。
この六年の間、中井さんは茶畑の荒廃をだた座して見ていたわけではない。こういうことをしているという人があれば飛んで行って話を聞き、こういうのがあるのだがという話があればその物を試してみたりもした。そんなことを繰り返しているうちに、この日本にも農薬を使わず、できるだけ自然な形で農業をやっていこうと地道に実践し運動している人がいることに気づきはじめる。そしてそういう人たちに科学的なサポートを提供している学者たちがいることも。
彼らの話を聞き、彼らのやり方を体験し、科学的なデータを参照しているうちに、中井さんの中に大きく膨らみ始めていた不安は次第に消えていった。
「やろうとしていることは、やっぱり間違ってなかったんや」。
逡巡と迷いと、絶望と諦めの大海の中で方向を失いかけ、溺れそうになっていた男の目にかすかに島影が見えた一瞬だった。
そんな時でもあった。海外でも彼らのやろうとしているようなことを試みている者たちがあることを知ったのは。というより、海外の方がずっと進んでいた。
「オーガニック」。
それらの農産物はそう呼ばれていた。今では耳に馴染んだ言葉だが、その頃にそんな言葉を聞くことは稀だった。
調べてみるとオーガニックな農産物として認められるにはかなり厳しい基準があることが分かった。誰でもが勝手に自分たちが作った農産物をオーガニックと称することはできないらしい。検査をパスする必要がある。そうでなければ誰でもが農産物をオーガニックだと言って販売できることになって、オーガニックの意義そのものがあやふやになってしまうからだという。
なるほどと思った。それだけオーガニックな農産物の価値が高いということなのだ。
「一度その検査を受けてみないか」。
中井さんの取り組みを聞いたあるお茶の問屋からこんな申し出があった。受けるといっても日本にはそんな検査機関はまだなかった。外国から検査員を招聘するのだという。費用はすべてその問屋が持つ。日本茶を輸出することを考えているその問屋にとっては十分にペイすることだった。
検査が行われた。もちろん最初からパスするはずもなかった。そんなことは期待していなかった。それよりもオーガニックな農産物について詳しいその検査員たちから、具体的なアドバイスを得られたことが大きかった。
オーガニックについては、まだまだ手探り状態だった日本の中で、この和束の地にひとつの大きな芽がめばえようとしていた。

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第五章

JONA。ジョナと読む。正式名称は日本オーガニック&ナチュラルフーズ協会。NPO法人だ。日本でのオーガニックな農産物の普及を目指して平成5年(1993年)に設立された。中井さんはこの組織設立の発起人の一人でもある。志を同じくする者たちが結集したというわけだった。
この組織の設立以降、検査は日本人の手で行われるようになった。そして平成12年(2000年)に「有機JAS」という制度が生まれる。
農薬や化学肥料などに頼らず、自然の力を上手に引き出しながら生産された農産物、加工食品、飼料及び畜産物に有機JASマークが付けられる。有機食品のJAS規格に適合した生産が行われているかをJONAなどの登録認定機関が検査し、パスした生産者のみがこのマークを付けることができる。有機JASマークがない農産物や農産物加工食品に「有機」とか「オーガニック」などの名称表示は法律で禁じられるようになった。 時代は変わりつつある。
「こんなに早く世の中が変わっていくとは思わんかったけどね」と中井さんが言った。
しかし昭和62年のあの夏から二十八年も経っている。それにオーガニックという名称は色々なところで見かけるようにはなったとはいえ、日本で生産される農産物や農産物加工食品に占める割合はまだ数パーセントにも達していないのではないか。
「誰もそんなことを知らず、知っても見向きもしなかったことを思えば、大きな進歩やと思うんやけどねえ」。
こちらの疑問に中井さんはそう答えた。
別に現状に満足しているわけではない。だが何かが確実に変わりつつある手ごたえを感じる。
それは自然に対し無理強いすることをやめ、自然と共にあろうとしながら、その自然にこっぴどく痛めつけら、それでもそれに耐えて、ついに和解に至った人物の、その腹の底にずしりとある確信なのかもしれなかった。 

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あとがき

言っておかなければならないことがある。
ここにあるのはある一人の男の、ひとつの信念の物語であって、ことの良し悪しについて語っているのではないということだ。
今でも農薬や化学肥料を使いながら農産物を作っている人たちは多い。その方が手間暇をあまりかけず私たち消費者が求める質のものを作りやすいからだ。生産性や効率もいい。
中井さんが農薬の影響を感じたあの頃から時間が経っている。使用基準もその頃よりははるかに厳しくなり、その範囲の中で生産されている限り人体に影響はないとされている。
いつでも潤沢で欲しい時に買うことができ、姿かたちもよくおいしそうで、値段もできるだけ安いものを私たちが求めるかぎり、生産者はその求めに応じたものを作る。当たり前のことだ。
そのようにして作られた、例えばほうじ茶は、中井さんの作ったそれと同じ名前で呼ばれることになる。
味は個人の好き嫌いによるからなんとも言えない。値段は手間暇がかかっている分、もしかしたら中井さんのお茶の方が高いかもしれない。
要はどちらを求めるのかということなのだ。
生産者が作るものを決めているわけではない。
私たち消費者が買わないものを、どんなに手間暇がかからず、生産性や効率がよくても生産者は決して作らない。
それもまた誰にもわかる理屈というものだ。

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(有)中井製茶場
京都府相楽郡和束町中市場14-1
TEL:0774-78-4192
FAX:0774-78-4096
営業時間/8:00〜17:00
定休日/日曜日
http://www.umucha.com/
ネット販売あり
163号線沿い恭仁京跡のすぐ近くに中井さんの直売所があります。
営業時間は9:30〜18:00、水木はお休み。この看板が目印→

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