村田尊彦

教師であるということ
村田尊彦

学校がとんでもないことになってる
学校がどうも大変なことになっているらしい。
かつては中学校で、今は小学校で体育を専門に教える教師である村田尊彦さんの話だ。
なんと彼自身が登校拒否になってしまったというのだ。
子供たちが登校拒否になるというのは、ちらほら聞いてはいたけれど、先生までもが登校を拒否するなんて、
おいおい、ドナイナットンネンと思ってしまった。

教師を目指す人は、普通の会社員になる人たちとは違って志望動機というものが明確にあるように思える。
「子供たちのために」というふうな。
いづれ課長になって部長になって、あわよくば社長に上り詰めて深々とした椅子にふんぞりかえって部下を呼びつける。
そんなつまらない動機ではなくて、子供たちの良き師になって、彼らの素晴らしい未来のための礎になろうと志していたりするのではないか。
そこのところが一般の会社に就職する連中とは少し違う。
そう言うと村田さんは深くうなずいた。
だが学校の現実はまるで違った。子供たちのためにと思って何かをしようとしても、細々とした仕事が山積みになっていて、
十分な時間が取れない。悩んでいそうな生徒がいても、呼んで話を聴くこともできないし、話を聴けたとしてもそれに対処するための時間が取れない。
ルールと責務と雑用のはざまで雁字搦めに縛り上げられていて身動きも取れない。
子供達のためにという志が高い先生ほどその身動きの取れない状態にイラつき絶望してしまう。
一般のサラリーマンでも自分の思いと現実の間のギャップに思い悩むことはあるだろうけれど、いつしか自分を取り巻く現実というものとなんとか折り合いをつけて、日々をやり過ごしていくことを学ぶ。
妻もいるし、子供もいる。そう自分が我慢すればそれでよい。
そんなふうになっていくものだが、教師の場合、生きている生徒が相手なものだから、その生徒が日に日に消耗していくのを見せられると、
自分が我慢すればいいのだとタカをくくっているわけにもいかない。
右の先生を見ても、左の先生を見ても、なんだか同じような気持ちになっているように見えるのだが、
それらの気持ちは上手に言葉にはならず、それぞれの身の内に押し込まれてしまい、思いが共有されることはない。
日々の時間割と雑務が押し寄せてきて、その波に押し流されてしまう。
「村田先生、お願いがあるんですが」
ある日、村田さんの上司がそう言った。
バレーボールを扱う際に、突き指しないように指の運動を事前に行ってほしいという依頼だった。
村田さんはそんなの必要ないですよと答えた。
「まずは二人一組でボールをゆっくり投げ合って、指をボールに馴染ませます。そうすると指がボールの感触を覚えるので、よほどのことがない限り突き指はしませんよ」
何年も現場で積み重ねてきた実体験からのものだった。
その言葉を聞いた上司はとても困った顔をして村田さんに言った。
「親御さんがね、そうしてくれって言われるんですよ。運動する前に柔軟体操をするでしょう。それと同じで事前に指をほぐしておけば突き指にはならないんだってね」
体育の現場をまるで知らない親が、単なる思い付きで言い出した言葉が学校管理者をある方向に導いていってしまう。
村田さんのように事と次第を説明することもできるのだろうが、「そうだとしても、もしものことがあったらどうするんです?」
この言葉が返ってきたら、もう教師の側は何も言えなくなる。
あんた、責任とれるの?
そこで全てが止まってしまう。
様々な試みは途中で頓挫してしまい、教師たちは事なかれなルーティンワークに時間を消費していくことになる。

教師って、聖なる職業なんだ。なのに・・・・
教師とは他の人の人生に積極的に関わろうとする、或いは関わらざるを得ない職業であるように思える。そんな職業ってあまりない。
普通の企業でも顧客とかお客さんとかという人間が関わってはくるけれど、それらはあまりはっきりとした顔を持たない、ある意味では抽象的な存在でもある。
ところが教師の場合は抽象的どころか、目鼻立ちもみんなばらばらの、ひとつひとつの個性なのだ。
そうだからこそ一人一人と、もっとちゃんと向き合いたいと思うだろう。だけど教室の現場はそんなふうにできてはいない。
モダンタイムスのチャップリンが部品が流れてくるベルトの前で無表情に作業を繰り返すように、日々の時間は流れて行ってしまう。
「こんなんで、ええんやろうか」。
村田さんは自分自身に問いかける。そして何らかの解決策を見出そうと働きかけるが、まるで暖簾に体当たりするように、するりと向こうに通り抜けてしまう。
そのようなことの繰り返しは途轍もなく人を消耗させる。高く掲げた志の旗竿がぽきりと折れた。村田さんは学校に行くのを止めてしまった。
村田さんによると今、全国的に教師の数が減ってきているらしい。
まず教師を目指す者が少なくなった。そして教師になっても今まで語ってきたようなことで教師を辞めてしまう人たちが後を絶たない。
辞めなくても教育の現場の様々な軋轢のために、心身を消耗させ休職する先生が多いのだという。
「私もそのうちの一人でしたけれどね」と村田さんは自嘲気味に言うけれど、教師の絶対数の不足という事態が村田さんをまた教壇に呼び戻すことになる。
ある人から小学校の体育の教師を探している学校があるのだがという話があった。
教師を辞めてからしばらく経ち、さすがに手元も不如意になりかけていて、それに声をかけてくれたある人とは村田さんの恩人でもあった。
取りあえず先方に電話をかけてみた。すると相手先はぜひお会いしたいと乗り気だった。
いつお伺いしましょうかと問い返すと「今日でも・・・」との返事が返ってきた。
今日ですか!!!さすがに驚いたけれど、相手先の切羽詰まった状況が目に見えるようであり、それに「時は今」という号砲が鳴り渡ったような気もして、村田さんはその小学校に向かった。
「担当者に会いにその小学校の校庭を歩いていた時、心臓がねえばくばくいうんですよ。それに膝ががくがくして満足に歩けなくなって・・・」
不安もある。やれるのかという躊躇もある。後ろめたさも、後悔も。あの日、あの時の様々な場面が思い出される。
だが同時に久しぶりに踏んだ校庭の、あの独特の学校の匂いが、やはりここが俺の場所なのだという思いを彼にもたらしたのではないだろうか。
そんな思いが血流を加速させ、すでに死にかけていた細胞の隅々にまで行き渡って村田さんを再生させた。
そんなふうに勝手に想像してみる。
村田さんはその小学校から懇願されて、体育教師に復職した。

「並ばせる。とにかく何かをする前にまず並ばせるんですよ」と村田さんが言った。
はい二列に並んで。そこ!はみ出さない。前の人の頭に合わせて。そう!はい、行きましょう。
子供たちの隊列はやっとこさ静々と動き出す。
「軍隊か!って思いますよね」
村田さんが苦虫を口に含んでしまったように言う。
並ばせる。きれいに整列させる。はみ出さない。勝手にさせない。教師の号令に従わせる。
なんだか監獄の中でのことのように今では思えてしまう。だがこちらの学生の頃もそんなふうに学校生活を送っていたのも確かなことだ。
「私らの時もそうでしたけど、机と椅子が一体化したような狭苦しいのに座らされてましたよね。あれなんかも気ままな姿勢で授業を受けさせないという意思の現われなんですよ。
本来子供たちは身体がまだ柔軟だから、あまり窮屈にしては良くないですけど、そんなのは無視する。硬い椅子に直角に座って、背中を真っすぐにして教師の話を聴く。そんなのがずらり。
それが美しいとでも思ってるんですかね」
村田さんはまず並ばせて行進させてから体育の授業を始めるというのをやめた。
めいめいが集合場所に集まる。走っていく者もあるし、ぶらぶらと友達を話しながら集まってくる者もある。
そんなことをすればなかなか生徒が揃わずに授業が遅れてしまうのではないかと案ずる人もあるかもしれないが、
これから始まる体育の授業が自分にとって面白いものだと知っている生徒たちは、笛を吹かずとも、号令を叫ばなくてもちゃんと集まってくる。
その授業というのはどんなものなのか。村田さんは跳び箱の授業の例を上げて話してくれた。
走って行って目の前にある跳び箱を跳び越える。それだけのことなのだが、皆さんの記憶の底にあるのではないだろうか。走っていく先に跳び箱が聳え立つ小山のように見えて、足がすくんだ記憶が。
二段、三段の跳び箱を、たいして指導もしないのに軽々と飛び越えていく生徒もいる。いつまでもためらっている者もある。生徒の能力はみんなばらばらだ。
そこで村田さんはまずは全員に一段の跳び箱から跳ばせる。準備運動というわけだ。一段に慣れた者は自発的に跳び箱を重ねて二段、三段と跳んでいく。でもなかなか慣れない者もある。
そういう子らには1つずつ跳び方の要領を教えていく。
「跳び箱に手をついて。そしたら足を30センチだけ前に出す。はいオッケー。そしたらもう30センチ足を前に出してみようか。いいよ、その調子。じゃ最後にもう少し足を前に出してみようか。ほら跳べた」
文章で書くとこんなふうになってしまうのだが、このあたりは村田さんが作った動画を見てもらった方がいいだろう。みんな楽しそうなのだ。(小学校オモロー体育「絶対跳べる跳び箱」で検索)
人には向き不向きがある。だから村田さんはそのような生徒たちを一緒くたにするのではなく、グループ分けしてそれぞれの力に見合った指導を行った。
人は出来ないと思ってしまうと、出来なくなってしまい、出来るかなと思い始めると、出来るようになる。
村田さんは記者に親指と人差し指で円を作らせた。
「出来る、出来ると心の中で念じてくれますか」そう言って指の円の中に自分の人差し指を入れて、ぐっと引っ張った。指の円はびくともしなかった。
「今度は駄目だ、駄目だ、あかん、あかんと念じてくれます?」
結末は想像できたから、そうはさせじと指に力をいれたつもりなのだが、記者の作った指の円はたやすく崩れてしまった。
人の意識というものが単なる想念の域を越えて、その人のパフォーマンスに強く作用するということの証だということだった。
一段の跳び箱で慣れていった生徒は、ならば二段でも出来るかなと思い、それを繰り返せばいずれ五段でも六段でも跳び越せるようになる。
「出来るかな」という想いを生徒の心の中に生じさせること。そこへ導いていくのが授業というものの在り方なんだ。
そう村田さんは言いたいのかなと、跳び箱の授業の話を聞きながら思った。

このままじゃダメだ。
その想いが教室を変えつつある。
いま学校を現場から変えていこうという機運が生まれているのだという。
教師たちが寄り集まって、それぞれの知恵を出し合い、自らの試行方法をテーブルの上に並べて、これからの授業の在り方を討議する運動が始まっている。
「オモロー授業」と名付けられたこの運動は今や全国的な広がりを見せているらしい。一人ひとり孤立して悩んでいた教師たちが、今や連帯するようになった。
そして現場から教育の在り方を考え直し、新たな授業の方法を編み出そうとしている。
そうした実践を通して今まで生気のなかった生徒の顔に赤みがさして、むっつりと閉じられていた口が緩みだす。
そして笑顔が生まれる。
その変化を感じ取ったら、これほどの喜びはない。教師冥利につきる。
教師たちは変わりつつある。だが教師だけでは限界がある。ぜひとも親たちの理解が必要だ。
「オモロー授業」では親たちも巻き込み、また地域さえも巻き込んだ運動を展開していこうとしている。
子供たちの未来は、この国の未来だ。
「オモロー授業」というこの運動が今後どのように展開され、発展を遂げていくのか、またしばらく時間をおいて、村田さんにたずねてみようと思う。