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ひと・人・ヒト 木村有香

rune10



奈良の空の下、北からの風が吹く。

木村有香さん

fleur

  彼女の第一印象。
 女剣劇の座長。浪速の女浪曲師。あの人のお陰で堅気になることを決心しましたと、あちこちの刑務所で囁かれている教誨師。終着駅のそばにある赤ちょうちんの女将、かの文豪が密かに通っていたという。悩める女たちの行く手を照らす光を語る占いの先生。など。など。
 茶化しているつもりはない。いづれにしてもひとかどの人物と思わせる何かが彼女、木村有香さんにはあった。身体はさして大きくないのに、そこから発せられる圧力波は相当なものがある。近づいて良いものかと思ったけれど、えいや!と話を聞いた。
 このような短い人物コラムの場合、その人の幼少期までさかのぼって尋ねることはし ない。その人の今の姿を知ることを最優先にするからだ。ただ彼女の場合は違った。
 木村有香という人物がどのような成分で出来ているのか、どのような汗と涙と喜びの 中で自分を形成してきたのか、すこぶる興味を持ったからだ。

 木村有香さんは若草山の麓にある由緒ある旅館の、美しき三人娘の「なかいとさん」、つまりは次女として生まれた。この旅館、「むさし野」という名だが、古典の伊勢物語にも出てくるというほどで、時間の底光りを感じさせてこちらの居住まいを正される。
 若草山をまるでわが家の庭のようにして走り回ったという。アルプスの少女ハイジが 赤いスカートを翻して走り過ぎるイメージが一瞬よぎる。
 小学生の低学年のころ、祖母が新しい店を出すことになった。次女である有香さんが 共に新しい場所に移ることになる。長女は旅館の跡取り娘、三女はまだ幼すぎた。だが 有香さんとてまだまだ母の乳の匂いに包まれていたい年頃。だが家の方針として彼女は祖母に付き従った。
「あの時両親が有香もまだ幼いので家に残すって言ってくれたら・・・・・」
 木村有香さんがぽつりと言った。
 母と離れ、父とも姉妹とも離れて、一人、祖母と暮らした日々のことを、彼女は祖母が 持たせてくれた弁当の事に託して語った。
「みんなのは黄色や赤や、色んな美味しそうな色に溢れてたけど、私のはほとんど茶色一色やったなあ。皆にみられるの、とても恥ずかしかった」
 このあたりでこちらの涙腺はウルッとし始めるのだが、彼女は淡々と語り続ける。

 花の盛りの女子高生の頃、はるか東北の八甲田の麓にある神道系の学校に通っていた。きゃぴきゃぴ、るんるんとはまるで縁のなさそうな学生生活。なんでまた?とつい口にした。
「なんかねえ、リセットしたかったんかなあ・・・」
 父母とまた離れ、自分の出自などまるで知らない人たちの中で生きてみる。どうせなら遠く離れた土地で。そうであるなら東北の高い空の下は、うってつけの場所であったのだろう。
 在校生の数はとても少ないから、クラブ活動も剣道部しかなかった。ならば帰宅部でも良さそうなのだが、そうはせず、その唯一のクラブである剣道部の門をくぐる。そして県大会でベストエイトに入るほどに研鑽を積んだ。
 「小手の有香と言われましたけどね」彼女は不敵に笑うのだった。その気迫に当方少し腰が引ける。
 その学校で生涯の師と仰ぐ先生と出会った。
 大戦も後半のこと、ついには大学生も兵隊にとられる事態になったが、日本の未来に有為な人材をむざむざ戦地で散らすわけ行かないということで東京帝大の各学科より二人を選抜してそれぞれの研究を続けることを許したという。その二人のうちの一人が木村有香さんの恩師だった。彼女がドヤとこちらを見る。こちらは恐れ入りましたと頭を低くした。面を取られた気分だった。
 跡取りとしての長女、可愛がられるべくして生まれた末っ子。その間でどのような位置取りをとればいいのか迷う次女。身の置き所を捜していた木村有香さんに、東北の大地はここがそうだと指し示してくれた。
 「雪が降ったらねえ、校舎の一階なんか全部隠れてしまうくらい積もるねん。寒いったらないんよ」
 嬉しそうに、懐かしそうに木村有香さんは語る。関西に育った人間には東北の冬はことさらに厳しいものだったはずだが、若さという発熱体を身体に秘めた彼女には心地いいものに感じられたのだろう。
 木製の校舎で尊師と学友たちと勉学に励み、磨き抜かれた床板の道場で竹刀を振り、高い空の下、田んぼのあぜ道を走り回っていた彼女の中に、一本の太い幹が育ちはじめていた。
 これはあくまでも記者の勝手な推測なのだが、この時期に木村有香という人物の大まかな形が出来上がったのではないだろうか。そう思う。
 会ってすぐの時は、なかなかの押出しがあり、またいい所のお嬢さんだというので、東向商店街のアーケードの下を、女の子よりは男の子の方が多い目の子分たちを引き連れて、ぶいぶいと闊歩していたのだろうと勝手に想像していたが、案に相違して、じっと耐えている少女がそこにいた。だが忍耐は彼女を押しつぶすことはなく、身長を伸ばしはしなかったが、少々のことではよろけることのない足腰を作りあげたように思える。

 さてここからは現在へと筆を進める。
 奈良の旧市街の一等地にいくつかの土地をもつ家の御曹司と結婚する。それらの土地でいくつかの店が生まれ、消え、そしてまた生まれた。その中で一番新しくできたのが「大和茶大福専門店 GRANCHA」、薫り高い抹茶とほうじ茶の大福が売りの店で、そこがオープンして半年後にあの厄介な病が広がりはじめた。
 さあこれからという時に、急停止ということになった。
 賑わっていた東向商店街の路上に人通りが絶えた。その頃、奈良の旧市街あたりを走ると、鹿たちが道路の真ん中をわが庭のように歩いているのに出くわしてびっくりさせられたことがある。もしかしたら当時、人間より鹿の密度の方が高かったかもしれない。
 木村有香さんが差配するお店は食べ物を扱う店ばかり。これが厄介だった。なぜならお客の入りに関係なく、食材を仕入れなければならず、そしてどんなに冷凍技術が優れていても、やはり時間と共に鮮度は落ちていく。使われなかったものは廃棄しなければならないことになる。それが毎日。ひと月にいくらお金が消えたことか。それにもっと頭を悩ましたのは、従業員たちのこと。お客が来ないのだから店にそんなに人はいらなくなる。人べらし。近隣の店のあちらでも、こちらでも首切りの噂がひっきりなしになる。
 どうしたんですか。恐る恐る木村有香さんに尋ねてみた。
「お客も来なくなったんで、仕事も暇やし、店にいても意味ないと言って自分から辞めていった人はいたけど、こちらから辞めてほしいとは、誰一人、言わへんかったわ」
 国の制度を利用して幾分か助けては貰った。ただその際、もう少し人を減らしして合理化したらという助言に、「従業員を切らなければならないなら、店閉めます」と啖呵を切った。片肌脱ぎになって、この若草山の桜吹雪が目に入らへんのんかあ!と凄む映像が、頭の中を何周もぐるぐる回るので困った。

 時は過ぎた。
 言葉にすればこれだけのことだが、何年も何か月もの間の苦闘は筆舌に尽くしがたいものがあった。なので、書けません、語れません。記者の才ではとても無理。皆さん、それぞれ想像して、悶絶してみてください。
 で、あの厄介な病も峠を越えて、東向商店街にも人通りがぼつぼつと見えはじめた。だがまだまだひと時の勢いが戻ってきたわけではない。外国からのお客さんも増えたけれど、またもやあの病が悪さを始めるかもしれず、先行きが明るいとは誰も思っていないはずだ。  そんなことなのに木村有香さんは、大胆な行動に出たのだった。
 年に三度ものボーナスを支給したのだ。
 「ボーナス出てん!」と言って喜ぶ社員たちの顔は、自分も含めて幾人も見てきたけれど、「ボーナス出してん!」と言って笑う経営者の顔を初めて見た。
 社員の喜びは、経営者の苦しみ。経営者の喜びは、社員の苦しみ。
 そういうもんやでと言った人があったけれど、木村有香さんにとっては、そんなんじゃあオモロナイということだったのだろう。 
 誰もが幸せになれるわけではない。そんなことは分かっている。確かにそうであるかもしれないが、だからと言って最初から無理だと諦めてしまうのも面白くない。  やってみようじゃないの。  さてさて、それがどんなふうになるにしても、その悪戦苦闘の中で何か思いもよらないものに出会えたとしたら、それもオモロイんちゃう?そう木村有香さんは考えたのかもしれない。(知らんけど)
 結果的に昨年度は三回のボーナスを出すことができた。従業員たちに還元するよりも、その資金を少しでも借金の返済にあてた方が、経営者としての心の平安は得られたろうに、木村有香という人はそうはしなかった。

 ただ者じゃないなと思って、近づいて、必死の密着取材を敢行したわけだが、二回に分けての取材でも、語り足りないことがあるように見えた。だけど記者はもう満腹で、言葉がわが体のあちこちから吹きこぼれてくるので、もうこのへんにしといたるわ、と捨て台詞を吐いて一目散に退散した次第。
だけどとても密度の濃い時間、いただきました。

fleur

 

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