ひと・人・ヒト 松吉久徳
IT企業からブドウ農家へ
松吉久徳さん
ブドウ農家
木津川市鹿背山在住
鹿背山。
木津駅からバスで10分ほどの所にある。柿で有名な土地だ。
今回の取材先、松吉久徳さんはこの地で生まれた。鹿背山では松吉さんの祖父たちが柿づくりを始めたそうだ。松吉さんご本人は現在、柿ではなくブドウを栽培している。
さて上の写真を見るかぎり父祖の地で代々農業に従事してきた朴訥なお父さんのように見える。記者もそんなつもりでお話をうかがうつもりだったのだが、松吉さんが語りだしたのはまるで違った話だった。
1974年のこと。大学を卒業した松吉さんは、まだ設立されて間もないある企業の定期採用第一期生として大阪にいた。
「コンピュータ関連の仕事をする会社だったんですよ。企業にコンピュータのシステム開発やオペレーションサービスを提供する会社でした」。
コンピュータ・・・!
1974年と言えば記者が大学に入学した年だが、その頃コンピュータという単語が頭の中や心の片隅にあったかどうか。しばし沈思黙考すれど思い当たらない。今でこそコンピュータなくては夜も日も明けぬということになっているけれど、あの時代コンピュータなんて洋画の中に出てくるぐらいのものではなかったろうか。
農家の長男だというから大学も農学部系かと思い込んでいたが、電機系の学部だったそうだ。コンピュータの輝ける未来に大いなる野望を抱いたのか、ことの成り行きでそうなったのかは確認しなかったが、青年は現在でも最先端のさらに突端にあるIT企業の戦士となったわけである。
当時のコンピュータというのはウルトラ巨大で、しかも処理速度が恐ろしく遅かった。だから松吉さんたち社員は付きっ切りで24時間交代制で働くこともあったそうだ。
「まさに今でいうブラック企業そのものって感じでしたけど、その時はそんなふうには感じませんでしたねえ。面白かったですよ、ほんとに」。
時代は急な階段を三段飛ばしで駆け上るような感じだった。
暇な時も退社時間を過ぎると、そそくさと仲間と誘い合って会社のあるビルの地下の居酒屋に集合したそうである。そこで鶴首協議が始まるのだった。
誰がどうだとか、何が気に食わぬかといった会社にまつわる愚痴ではない。あのクライアントをどう落とすとか、問題のシステムに対して効果的な対処方法はどーだとかあーだとか、そんな仕事にまつわる話ばかりだった。
それなら残業して会社の会議室で話し合えばいいじゃないですかと問うと、「アルコールですよ、アルコール。燃料を放り込むとよう燃えるんですわ頭の中がね。フル回転ですよ」と松吉さんが笑っている。よく飲み、よく議論し、そして翌日よく働く。
「そんな時代でしたなあ・・・」。
そう、そんな時代だった。活気があってなんだか高揚していて、明日は今日よりちょっぴり良くなっている。そんなことが信じれた時代だった。
同じ時代を四歳違いで過ごした松吉さんと記者は、過ぎ去った時代を懐かしむような遠い目をして頷きあったのだった。
「その会社が旧財閥系の大企業に買収されるというその年に退職したんですよ。定年を二年過ぎていました」。
IT企業=若者というものでもないだろうが、62歳まで時代の先端企業で働きつづけたことに驚いた。それだけ貴重な人材だったということだろう。
そしてふるさと鹿背山の地に戻って今はブドウの世話をしながら、時おり土を捏ねて茶わんや湯飲みなどを作っている。案内された陶芸のための小屋の中には立派な窯がひとつ、小ぶりなのが二つ、それに電動のロクロが二台と手回しのものが三台もあった。
「ここに仲間を呼んで土と遊ぶんですよ。声を掛ければ結構集まってくれます。それにアルコールタイムって楽しみもありますしねえ。捏ねているのか飲んでいるのか、わかったもんじゃありませんなあ」。
あはは、と松吉さんは笑っている。陶芸をやっているというから、一人で黙々と土と格闘しているのかと思っていたが、松吉さんのは仲間とわいわいとやる方だった。なんだかバーベキューやってるみたいですねと言うと、そうそうそれと頷いてくれた。
時代の先端企業で定年まで働き、その後に田園に戻って農業とお仲間との陶芸を楽しんでいる。まるで男の理想の人生のように思えてくる。そう口にすると松吉さんはうーんと唸った。
五十歳になる直前に燃え尽きてしまったんだと松吉さんはつぶやいた。
「鬱っていうんでしょうかねえ、なんかまるで調子が狂ってしまって。会社にはそれでも行ってたんですが、なにかこう心を委ねるものが欲しくって、それで土いじりを始めたんですよ」。
頭と神経を極限まで使う仕事をしていた男が過労のために倒れた。その男が救いを求めたのは手を使うということだった。土を捏ね、ロクロを回して柔らかな粘土の塊から手のひらと指先で形を捻りだしていく。
「無心になれたってことが良かったんでしょうね」。
松吉さんにとって陶芸はただの趣味というわけではなかった。生きる術を与えてくれたもののようだった。
ブドウ作りを本格的に始めたのも父上の死がきっかけだったという。それまでも直伝でお父さんから作り方を教えてもらってはいた。その過程を克明に記録した自家製のマニュアルを見せてくれた。
写真とワープロ文字で構成された見事なものだった。何十ページもあった。
「これのおかげですよ」。
マニュアルをポンと叩きながら、松吉さんは誇らしげにそう言った。父から受け継いだブドウはこの夏にまた実をつける。
「うまいんですよ」。松吉さんがまた誇らしげに言った。
癌も患った。心筋梗塞にも見舞われた。そんな話になった。
その都度その都度、人生の波形は上下したり、尖ったり乱れたりしたことだろう。そしてその時々に、選択と決断とやむにやまれぬ実践があったということだ。その描いた航跡を人は美しいと評するかもしれないけれど、波を蹴立てて進む船の主には自らの跡を眺めて感心している暇はまだない。
どこかの自然派系の雑誌から切り抜いてきたような小奇麗なライフスタイルを想像していた記者は、
人の生のリアルに直面して深い吐息をつかざるを得なかった。
色々あるんだよ、人生ってね。