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特集:鹿背山の人 森本 茂

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鹿背山焼をめぐる或る男の思い。
鹿背山 森本助左衛門窯末裔 森本 茂

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鹿背山にいる。
山々と田園風景が広がり、その緑の中に秋には柿山の柿色が鮮やかな点描となって青い空の下美しく広がる。
だがこの鹿背山の地で、かつてその青空に向かって黒々とした煙が幾本も立ち上っていたことがある。
登り窯が吐き出す煙だった。
この地に九つもの窯があったという。その窯で焼かれていたのは、その名もずばり鹿背山焼。
冷涼な白い肌にコバルトブルーの絵柄が描かれた磁器だった。江戸の後期に生まれて、明治の中頃には衰退してしまった。その間ほぼ80年。まるで束の間の夢のようだった。

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磁器は陶器とは違い、土ではなく石をすり潰して使う。
その多くは九州は天草でとれる天草砥石を使うのだが、この鹿背山で見つかった白土(はくど)に磁石に近い成分が含まれており、天草のものと混ぜ合わせて鹿背山焼は焼かれた。
また焼成温度も陶器に比べてはるかに高温で、ガスも電気もない時代に薪だけでそんな高い温度を実現するにはすごい熟練の技が必要とされた。
そんな磁器づくりのプロ中のプロがこの鹿背山に集結して、青い空を黒い煙で染めたというのである。絵付けには京より招聘された一流の者たちがあたったという。
今では「のどか」という言葉が鹿背山を形容する言葉としてふさわしいように思えるが、当時はまるで一大産業団地、いや磁器と言えば高級な工芸品であったのだから一大工芸団地とも言うべき地であったようである。木津川の水運を利用して、様々な物資がこの地に集結し、そして出来上がった磁器は大坂などの都市に運ばれていった。たいそう賑わっていたことだろう。

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今では想像もできないそんな賑わいの音に一人耳をすます男がいる。
森本茂。その鹿背山焼の窯元のひとつであった森本助左衛門の末裔である。
鹿背山の実家のすぐ裏手、竹林の中に登り窯の跡がかすかに見て取れる。もう土に帰ろうとしているようで、素人が見てもそれと判別つかないのだが、耐火煉瓦の破片や器のかけらが時おり見つかるらしい。
「鹿背山という所は昔は時代の最先端をいく土地でもあったんやねえ。当時の陶工たちは自分たちのことを芸術家とは思ってなかったやろうけど、現代の眼から見ればこれらの磁器や陶器たちは立派な芸術品とちがうやろうか」
木津川市役所の一部を借りて自らが主宰した鹿背山焼展の会場で、森本さんはそう語る。
陶器も磁器もその手で作ったことはないけれど、自分の中に流れる遠い先祖の血が最近になって時々語りかけてくるらしい。
「二年前に母親が死んで、その頃からかなあ」
森本家直系の母上が亡くなってから自らの血を意識するようになった。
助左衛門の血を受け継ぐということの重さと意味を考える。
今の木津駅の周辺は古代には沼沢地であったらしい。人々は鹿背山あたりの山際に多く住んでいた。
近くに恭仁京があったことからわかるように、鹿背山は猿と猪だけが棲む山深い地というわけではなく、古代より人の営みがあり、文化が営々と築かれてきたというわけだ。

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「手前味噌かもしれんけど、鹿背山は木津川市の原点であり、コアであるような気がするんですよ。歴史とか文化とかがいっぱい受け継がれてきたし、鹿背山焼に見られるような進取の気性に満ちた人たちもいたわけで、そのことを忘れたらあかんと思うんやねえ」
そんな思いが鹿背山焼を一堂に集めた展示会を開かせる動機になった。
ただたんに昔々こんなことがありましたと語るのではなくて、かつてこの地で活躍した人たちの夢の一端に触れることで誰かの心の中にぽっと火がつかないか。そうすれば自分たちが生まれ育った土地に対する愛と誇りを生まれ、今までになかった何かをこの街にもたらしてくれるかもしれない。そんなことを思う。
「だからもっと若い人に見てほしいなあ」
鹿背山焼のひとつを手にに取りながら、森本さんはそうつぶやいた。

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