ひと・人・ヒト 村田有希
女であることの意味
村田有希さん
「男稼業」というものがある。いわゆるトラブルバスター。世の中の揉め事の調停役である。
反社会的集団のことをさす場合もあるけれど、そっちの方のことではない。
二つの勢力や個人が、あるいは個人と勢力がそれぞれに激高して抜き払った刀の、その切っ先の間に割って入って道理を語り、それぞれの心の隙間に入り込み、ことと次第によっては恫喝を加えて怯ませ、時におだてたり、すかしたり、己の胆力と迫力と暴力と、そしてそれ以上に人間的な魅力をフルに発揮して事をおさめる。
すると抜き払われた刀は元の鞘に戻り、殺気は静まって平穏が取り戻される。
そんなイメージ。
村田有希さんと話していて、ふと「女稼業」という言葉が浮かんだ。
男稼業とはまるで違う。事をおさめる力ではなくて、事を生じせしめる力。
ふたつの間にあって、まるで触媒のようにそれぞれに化学変化をもたらし、ふたつをひとつに結びつける。 それぞれが個のままでも、それなりの社会的影響力を持つけれど、ひとつになることでその何層倍もの力を持つ。
こっちはそんなふうなイメージだ。
彼女は自分のことを何もない存在だと自嘲した。
絵が描けるわけでもなく、美味なる果実を作れるわけでもない。人々を束ねて事を興したこともない。
そういうことを言いたいようだった。
だが具体的な何者かであるということは、あるポジションに自分をはめ込んでしまうということでもあったりする。歯車のひとつになってしまう。
歯車が悪いと言わないが、そんなのは男に任しておけばいい。
男は歯車であることに生き甲斐さえ感じたりするのだから。女はどうもそんなふうではないような気がする。あえて言うならば潤滑油。歯車の間にどこまでも浸透していって歯車たちを円滑に回していく。なくてはならない存在だ。
何かを為すということではなく、何かを生じせしめるよう促す。円滑に繋ぎあわせることで今まで見たことも無いものを誕生させる。
インキュベーション、孵化させること。そう言い換えてもいいかもしれない。
女は男にとって永遠の謎である。
男を何年もやってきたけれど、それでも解ききれない女は謎だ。
だが、と思うことがある。その当の女にとって、女であるということはどういうことなのか。
村田有希さんが知り合いのデザイナーが主宰する洋服の試着会でモデルをするのだというので、興味本位で出かけて行った。
結婚しているのか、まだなのか、それともとうの昔に別れてしまったか、いづれにせよもう若いとは言えないけれど、おばさんと言うにはまだ早い妙齢の淑女たちが集まっていた。
お客なのかと思った。だが彼女たちはそれぞれに奥の衣装室に消えていき、しばらくすると艶やかないで立ちで現れた。彼女たちもモデルなのだ。
それぞれ好みの衣装を着て一人一人ステージに進み、カメラマンの指示に従ってポーズを決めていく。他の者たちは衣装を着たままの姿でそれを見ている。
彼女らはモデルであると同時に観客でもある。観客の側はまるで女子高生のように黄色い声を上げる。
「きれい!」「とっても可愛い」「そこでくるっと回ってみて」
皆の声援を浴びて、ステージの上で女はあどけなく微笑み、ふと静まり返ってしなを作り、妖艶な笑みを浮かべたりする。
入念に化粧をほどこし、お気に入りの衣装を羽織ってステージの上で自分を解放する。 彼女たちは女であることを心底楽しんでいるように見えた。
清楚になりもするし、シックに落ち着き払うこともある。一転、ゴージャスに舞い上がることだってある。
様々な自分に変り身して、そのひとつ一つを楽しんでいる。生き生きとしている。
男にはとても真似の出来ない芸当だと痛感させられる。
その時その時の自分自身を楽しむことができる。そこの所が女の力の源泉なのではないかと思えてくる。
女稼業と言ってみたり、女の力と言ってみたり、なんだか大層でごつごつした手触りの文章になってしまった。
ただ村田有希さんと話していて感じたことを、あれやこれやと突っつき回しているうちにこんなふうになった。
こんなの私じゃない!こんなこと言ってないぞ。
そう言って彼女は怒るかもしれないが、まあ勘弁してくださいと言うしかない。
やはり女は謎のままで、解き明かそうとすることそのことが、まるで野暮なことのように思えてきてしまう。
力尽きて波間に突き出た岩礁に座礁してしてしまった小舟のように、波の音を聞きながら遠くの空を眺めているほかないようなのだ。