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ひと・人・ヒト 中尾英之

rune10



答えは自分の中じゃなくて、やっぱりお客さんの声の中にあるようですね。

中尾英之さん
お食事処「たちばな」オーナー
奈良市奈良阪町2340
0742-23-6526
http://peraichi.com/landing_pages/view/wsb6v8tachibana/


fleur

 そのとき異様に疲れていた。
 久しぶりの外出で、しかもなれない肉体労働をしなければならず、盛夏にはまだ間のある頃だったが照りつける陽射しは容赦なくて、水も飲まずにいたものだから軽い熱中症にかかっていたのかもしれなかった。
 帰りにバイクで走りながらちょっとこれでは家まで持たないかもしれないと不安になってきた。般若寺あたりに差し掛かってとき「たちばな」のことを思いだした。
 ああ、あそこで休ませてもらおう。
 表通りから裏通りに入って「たちばな」に向かった。オーナーであり料理人でもある中尾英之さんと奥さんの治子さんに久しぶりの挨拶をしたけれど、体を壁に持たせかけていないとその場にへたり込みそうな感じだった。
 驚いたご夫婦のどうしたんですという問いかけには、いや、まあ、そのう、と曖昧に返事をしてテーブルについた。注文はしたけれどそのままテーブルに突っ伏したいぐらいで、まるで食欲なんてなかった。
 もし食べれなかったら事情を話して許してもらおうかとぼんやり思っていた。両手で頬杖をつきながら光で白くハレーションを起こしかけている庭を見るともなく見ていると、 注文した料理が出てきた。
 食事を前にしてあんなにげんなりした気分を味わうのは初めてだった。
 せめて一箸でもつけないとと思い、注文した鰤の定食のひときれを口に入れた。味が舌にしみこんでいくようだった。ころりとして、しかも弾力を失わない鰤の肉片が層になってほぐれていく。ああ、と深いため息のようなものが洩れた。
 それから箸は目まぐるしく皿と口の間を往復することになる。その間十分ほど。完食していた。椅子の上でも体を支えるのがやっとというような状態だったが、まるで元気を取り戻していた。嘘のような気分だった。
 熱中症で体が熱暴走をしていたのかもしれなかった。あるいは血糖値が異様に低くなっていたのかもしれない。そこにクーラーのきいた部屋で、適度に栄養を含んだ食事を摂ったので体がバランスを取り戻したということなのだろうか。
 だけど食欲なんてまるでなかった。「たちばな」には失礼だけど食べるよりは休みたい一心で飛び込んだのだった。畳の上にしばらく寝かせてもらおうと本気で思っていた。いま思えば食べれるような状態ではなかったのだ。なのにやっと一口食べてみると二口目がすぐに続き、エネルギーのバロメーターが急上昇するかのように力を取り戻したのだった。

fleur

  なんで?と中尾さんに尋ねた。さあ、と中尾さんは首をかしげた。
 でも、としばらく首をかしげてから中尾さんが言った。
 「自然なものしか使ってないからかもしれませんね」。
 合成のナントカとか、化学の手になるカントカとか、そんなものは一切使わず料理しているからかもしれないというわけだった。
 体が元気なときは、合成ナントカとか、化学的カントカで作られているものでも平気で食べられても、体が弱っているときにはそこに含まれている微小の危険因子に敏感に反応してしまい食べれなくなる。そういうことなのかもしれなかった。
 そう言えば「たちばな」を紹介してくれた人も胃がん手術の後、なにを食べてもおいしく感じられなかったのに、ここで食べた定食はあっという間に平らげたと言っていた。
 「時々そんなことをおっしゃるお客さんがいるようなんですけどね」。
 共通の知人であるその人のことを話すと中尾さんはそう言った。
 別に不思議でもなんでもない。食べるということは本来そういうことなんです。
 中尾さんがそんな講釈をたれたわけではない。ただ彼の静かな表情のなかにこちらが勝手に意味を読み込んだだけのことだった。
 ことさらに病人食だといってきわめて薄味の白っぽい、お世辞にもおいしいとは言えないものを食べるより、舌と体がああ美味しいと思えるものを食べた方がはるかに命を奮い立たせることができるのではないか。あの盛夏の直前の出来事を経験してそんなことを思っていた。ここの料理はどれも美味しいものだったが、どうもそれだけではなかったようだ。  

fleur

 そんな料理を出そうとすれば手間も暇もかかるだろうし、食材にも手が抜けない。
 「手間暇といっても、全部自分がすることですし、嫁さんと二人で店をやっているわけですから人件費がかかるわけでもない。その分、材料費に回せますんで、まあなんとかやっていけてますよ」。
 今年の五月で「たちばな」は三年目を迎えた。なんとか安定軌道に乗ったかなあと思うんですけどねと奥さんが笑っている。今年はメニューを二つに絞っていこうかと考えていると中尾さんが言った。
 「うちの名物を作ろうってずっと考えていたんですよ。それで色々なメニューを考えて出していたんですけど、なかなか決まらない。で、もう一度検討してみたら開業当時からずっとメニューにあったトリ天の定食がお客さんの支持を得えていることがわかったんです。自分でなんとか作り出そうって力みかえるより、お客さんの声に耳を傾ければ良かったんですよね。考えてみたら当たり前のことなんですが、そこに気づかなかった」。
 たまたまから揚げの全国的なコンテストが開かれると聞きつけて、それに応募することにした。お客さんに評判のいいうちのメニューがどれほどのものか試してやろうと思ったらしい。名のある料理人が審査するという形式ではなくて、お客さんの一票が勝負を決するとスタイルのものだった。そこで金賞を受賞した。
 「名物のひとつはそれで決まりました。もうひとつは蕎麦天定食にしようと思ってます。たまたまお客さんの紹介でいい蕎麦に出会ったんですよ。技をいまらか習うわけにもいかないし、時間もないので手打ちってわけにはいきませんけど、うまいんですよこれが。今度食べてみてくださいよ」。
 やはりメニューはお客さんが決めるものだからこれで決まりというわけではないが、まずは「たちばな」の三年目、この二つのメニューで勝負に打って出るということらしい。
 「お客さんの声を聞きながらやっていこうと思ってるんです」。
 どちらかというと職人肌の中尾さんだが、経歴を聞けば飲食関連の会社のサブマネージャーなども経験して、メニューの開発から新規店舗の立ち上げなど飲食事業の最前線も経験している。たんなる包丁一本、この道ひたすらな人ではないようで、少し離れた所から自分を見ることもできる人のようだ。
 「手間隙をかけて食材にもこだわっているとはいえ、それで自己満足してるわけにはいかんですもんね。やっぱりお客さんの満足ですよ。そういうことだと思います」。
 お食事処「たちばな」の三年目、さてさてどういうことになるのか。吾がことではないけれどちょっとばかり楽しみなのである。

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