蕎麦人のこころ
蕎麦人のこころ
第一回
「蕎麦人のこころ」
繰り返すようだが蕎麦の話であり、蕎麦打ち職人の話であり、
蕎麦屋の主の話でもある。
となれば、最初に取り上げるのは蕎麦そのものの話ということになりそうだが、どうにもそれはでは当たり前すぎる。
蕎麦屋の話は蕎麦へのこだわり話が八割で、
あとはお店の雰囲気あたりをちょいと書いておけば
それで一丁上りというよくあるパターンに陥りそうだ。
もちろん蕎麦は主役である。
ストライカーであり、四番打者であり、エースアタッカーである。
だが彼、もしくは彼女だけでは試合には勝てない。
チームの仲間がいてはじめて試合ができるのだし、試合に勝つこともできる。
蕎麦一人がいくら力みかえっても、お客さんの舌を唸らせることはできない。まず無理。
そこでいつも脚光を浴びている主役には少しお休みいただき、
主役を主役たらしめているというか、舞台を引き締め、
ドラマの厚みを作り出すことに一役かっている
名脇役たちをこの連載では取り上げてみたいと思っている。
まずは準主演級にご登場願おう。
蕎麦といえばつけ汁。
そしてつけ汁といえば、醤油ということになる。
日本のソウルフード。
日本人の魂は醤油で産湯をつかったのではないかと
思えるほどの切っても切れない仲である。
日本食の味を左右するのは醤油の出来次第とも言える。
さて「蕎麦人」のつけ汁のこと。
かなり濃厚である。それに辛口。大衆食堂のざる蕎麦に慣れた記者のような者の舌にはかなりのインパクトがあった。
ゆるさはまったくなく、きりりと引き締まっている。
それでいて蕎麦と共に喉にさっと消えてあとくちを残さない。
食事の後にはお茶か水は欠かせない。
一口飲んで、口の中をさっぱりさせてから席を立つ。
そういう習慣が私たちにはある。
ところが「蕎麦人」で食べた後、出されたお茶を飲まずにいることが多いのにある日気がついた。その必要がなかったからだ。
食べる前と食べた後で、満足した以外は何も変わらない。
あれま、と思わされた。
そのつけ汁の多くを担っているのが、奈良の転害門そばにある向出醤油(むかいでと読む)がつくる濃い口醤油である。
当主は向出佳史さん、五代目である。
さすが奈良転害門のそば、歴史がみっちりと分厚い。
六代目の息子さんと二人、醤油造りに今日も励んでおられる。
大豆を蒸し、小麦を炒ってもろみを作り、それを絞って瓶に詰めて販売するまで、醤油造りのはじめから終わりまで一貫生産している。
最近ではそんなふうにいちから醤油造りをしている所はかなり少なくなっているらしい。貴重な存在である。
「蕎麦人」の横山さんは醤油を求めて色々と試行錯誤したらしいが、
最後に向出さんの醤油に決めた。
いちからの手造り醤油だから大メーカー品に比べて仕入れコストは高い。
「そうですねえ、コストはかかりますね、たしかに。だけどそれなりのお代をいただいているんだから、それ相応のものを使うっていうのは、当たり前のことだと思うんですよね」
コストを削れば利益は増すけれど、味を犠牲にして、何をしたいのと考えれば、
自ずと進む道は決まってくるということらしい。
このあたり、向出さんの気持ちとも重なる部分があるように思える。
醤油は人が造るのではない、発酵菌と時間が造る。
人はただそれを見守るだけ。
向出さんの話を聞いているとそういうことになりそうだ。
はじめて知ったのだが、醤油が出来上がるのに一年以上もの時間が必要なのだという。
それぐらいの熟成の時間がないと、美味しいものにはならない。
その間、もろみを入れた大きな樽をかき回して空気を入れて、
発酵菌の働きを手助けしてやることぐらい。
あとは祈るのみというようなことなのだろうか。
そうやってもいつも上手くいくとは限らない。
もうこんな面倒なことはやめて、よそからもろみを仕入れて後は絞るだけにした方がはるかに楽だし、
もしかしたら儲かるかもしれない。そう思ったとしても不思議ではない。
だが味を犠牲にして、いったい何をしたいのかと考えれば自ずと道は決まってくる。
儲けたいだけなら醤油造りなんてとっくにやめている。そういうことなんだろうと思う。
そんな醤油造りの男と、蕎麦作りの男が出会って「蕎麦人」の蕎麦が出来上がっている。
共に夢を語り合うなどというテレビ番組向きの出来事などないだろうけれど、
向けている視線の方向が同じなら、どこかで出会うのも自然なことなのかもしれない。
そういう出会いがおいしさを作り出すのだなとしみじみと思いながら、
今日もずずずと蕎麦をすすっているのであった。
第二回へつづく
醤油醸造元 | 合名会社 向出商店 宝扇(商品名) |
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営業時間 | 8:00〜17:00 |
定休日 | 定休日を定めていない。 事情により休業する場合もあり、ご用の場合は事前に電話確認を。 |
住所 | 奈良市手貝町22-1(地図) |
電話番号 | 0742-22-2306 |
ホームページ | http://www.eonet.ne.jp/~mukaide/ |
備考 | 向出醤油 宝扇は、向出商店に直接行かれるか、イオン高の原店でお求めになれます。 |